労務管理教室


 いじめ・嫌がらせが職場の問題として定着し、労働法としての取り込みが進められている。
 パワハラ行為が生産性を下げるものであることはわかりきったことだが、なぜか生産性向上を会議する場では扱われない。生産性を向上させるという議論が実際の所真剣ではないということもあるが、ここにもパワハラが潜んでいることに気を付けたい。
 ハラスメントは大きく言えば、人間関係のトラブルをいうものである。つまり、不穏な人間関係を引き起こすことを目的とする。相手の発言を黙殺する、無視する、低く評価されるように吹聴したり仕組む、極めつけは生産性向上に反しているなど加害行為を棚に上げて相手を追い詰める。これらを正当な社内業務の枠で進めるため、その卑劣さは相手の感情の度を超させ、あるいは気を削ぐ。
 人としていちばんやったらいけない恥ずべき行為がハラスメントである。それに対して法的責任は軽い。煽り運転のように重くはなっていくだろう。
 さて、こうした損にしかならないことへの会社の対応はどうなのだろうか。会社もまた突き詰めれば個々の人間に当たるものであるが、人間関係が入らない存在として、合理的な内容を定めた就業規則がある。ただし、これは合理的な運用がなされていなければ価値を持たない。そればかりか、労務管理が放置されている印象となる。
 運用教育や運用管理まで社労士と契約するのがよい。


 パートが主の職場に、社員が定期異動で赴任する。
 パートは採用地限定契約で、社員は全国あるいは一定の圏内を定期的に異動する契約というのはよくある。
 そこの仕事に関してはベテランの領域にあるパートというのはどこの組織でも珍しいものではなく、一方赴任してきた社員はそこの仕事を知るため、そのベテランよりヒアリングや概括的なOJTを受ける。それでメデタシであればいいのだが、
人間関係というフィルターが入ると、経営論ではなぜかミスしている面倒が普通に起きることが多い。
・最初は仕事の消化度や理解度に開きがあるため、そこに好き嫌いの感情が業務に混入しだすと、パートと社員との関係は悪化する。社員は慣れれば一定のレベルに達するものが、職場での感情の齟齬のため、予定通りに進まない。
・異動制度の適用の無いパートが、赴任した社員を異物混入として排除する傾向が生物学にある。そのためのケアをしている労務管理はほとんどない。(異動制度の一つの効用である、無用な角を丸めるという利点が効かない。)
・ベテランパートは、就業規則上の管理職ではないが、他のパートを指導する位置にある。就業規則上の権限や責任のない状態では、一般的に、合理性のない言動が他のパートに影響を与えることが多い。ベテランの言動特に「悪口」という行為は経営的に深刻に捉えられ、他のパートほとんどが社員の業務指示を軽視しだす、という秩序の混乱を招いている場合、服務違反として処分対象化される。ただし、意識が低いため、反省まで至らせるには結構大変である。「私が法律だ」のベテランパート版である。
 こういう事態が起こっていれば、会社の労務管理放置ということなのであり、ただそのベテランを処分するわけにはいかない。異動制度のケアやパートの役職待遇措置が必要になっているというシグナルと受け止めるのがよい。


 労働法に女性保護規定が大部分なくなって久しい。あるのは危険有害業務と母性保護規定である。
 性別によって扱いを変えず、労働力として扱われること、これがあるべき姿である。今や男女以外のトランスジェンダーも労務管理の視野に入っている。
 雇用均等のキホンとして、性の役割を仕事と関連させないという穿った視点がある。女性社員≒お茶くみサービス要員という例がわかりやすい。昭和の時代、男性は外で働き、女性は家で家事をするというのが社会的に認知された了解事項であった。女性は会社で少し社会勉強した後寿退社するという「腰かけ入社」が当たり前であった。したがって、夫の上司などの家庭訪問があった際には会社時代のサービス業務が活きるわけである。
 ところが、こうした性的役割に異を唱え、労働力として男女均等の賃金制度の適用を求める訴えが起きた。それから、セクハラ(性犯罪)も報道に取り上げられることが増えた。そして、詰まる所、性別により役割を分担するという意識が問題の原因であるとされる。
 ただし、セクハラの源泉は男女で役割を分担することにあるから、ただ労働力として考えること、と会社に助言するのはよいが、労働者には男女問わず受けが悪い。判示と現実、結果と原因の連絡の悪さを痛感するばかりである。 


 人材不足現象は、教育ノウハウのない職場ではそのまま人間関係のトラブルとして展開される。
 採用したところまではよかったが、教育担当がいないか、もしくは多忙で教育する機会をもてないといつた職場が多くなっている。戦時体制を経た昭和の時代は職場教育の行き過ぎた過剰さが強固な組織を作り上げていたが、もはや組織論について耳にすることはない。ここに多少のやましさのようなものを感じるのだが、最低限の教育は当然ながらそれが企業活動となるものだから必要である。
 だから、どこかの早い段階で、企業活動が有機的に回るだけの最低限の教育はしておかねばなるまい。


 ハラスメントの法制化の実地に向けての作業が少しずつ進んでいる。法律の設定方法はかなりややこしい。指針策定作業での文面で説明すると、 《女性の職業生活における活躍の推進に関する法律等の一部を改正する法律(令和 元年法律第24号。以下「改正法」という。)の施行に伴い、及び労働施策の総合的 な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律(昭和41年法 律第132号。以下「労働施策総合推進法」という。)第30条の2第3項の規定に基づ き、事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して 雇用管理上講ずべき措置等についての指針》 というもの。ハラスメントは均等法にもまたがるものとなり、整理してハラスメントだけの特定法に移行してくれるとそれだけストレイトに浸透するはずである。
 なお、ハラスメントは人間性にあって野獣的な本能の形であるから、ゼロにできるものではなく、解決対応と予防措置が主眼である。働き方改革は、ハラスメントという職場の負の要素により、実効性が疑われているということを踏まえておかねばなるまい。


 最近の好ましくない傾向として、そぐわない内容でも条例や法理にして、成立後は行政に任すというものがある。
 これは個々人の自分での処理能力の実状として問題である。当人の権限外や手に負えない範囲なら理解できるが、多くは実はそうでもない。自分は解決能力を持たず管理主体に労力を委ねているものである。

 今は過度期で、仕事帰りのコミュニケーションに問題がある一方、その部分を欠いた職場運営では機能不全が生じており、しかしマニュアルだけでは皆を円滑に動せていくものではない状況である。不適任者に任せれば、公平性を欠くようなことも簡単に行うものであるし、また一般的にトラブルの種子となる「報告・連絡・相談」(報連相という)を重視せず、あるいは一方的に、相手の説明を受け付けず暴言を吐くパワハラ・いじめ行為を行う。

 組織というものは個々人に解決能力があるだけでは足りず、職場環境において良好な教育を受けさせることができていなければならないし、秩序維持機能が働いていなければならないが、そういう職場はほぼ皆無であり、現状では管理主体による解決の蓄積を待ってそれを職場に応用していくという方法が採られる。
 それに伴い、代理人制度は、専門内容とは別に、当事者の一方の意思表示を相手方に示すという意義が強くなってきている。 



 組織の2-6-2の法則というのを、どこかで見たことがあります。大方の組織は、デキる人2割、普通の人6割、余りできない人2割で大体構成されているという法則とのことである。
 これから、まぁそういうものかなと寛大さを身につけるのもよいが、それはデキる人あるいは普通の人がリーダーシップを取れている場合である。余りできない層が組織の中での発言力が強い状態である場合は最悪である。
 こういう組織では、権謀術数が張り巡らされていてというのは小説であるが、不健全な組織であることは言うまでもない。この状態を改善する方法は、構成を変えない(これ自体は変わることのない事実として考える)で、大きくリーダーシップを組み替えることである。


 最近の好ましくない傾向として、そぐわない内容でも条例や法理にして、成立後は行政に任すというものがある。
 これは個々人の自分での処理能力の実状として問題である。当人の権限外や手に負えない範囲なら理解できるが、多くは実はそうでもない。自分は解決能力を持たず管理主体に労力を委ねているものである。

 今は過度期で、仕事帰りのコミュニケーションに問題がある一方、その部分を欠いた職場運営では機能不全が生じており、しかしマニュアルだけでは皆を円滑に動せていくものではない状況である。不適任者に任せれば、公平性を欠くようなことも簡単に行うものであるし、また一般的にトラブルの種子となる「報告・連絡・相談」(報連相という)を重視せず、あるいは一方的に、相手の説明を受け付けず暴言を吐くパワハラ・いじめ行為を行う。

 組織というものは個々人に解決能力があるだけでは足りず、職場環境において良好な教育を受けさせることができていなければならないし、秩序維持機能が働いていなければならないが、そういう職場はほぼ皆無であり、現状では管理主体による解決の蓄積を待ってそれを職場に応用していくという方法が採られる。
 それに伴い、代理人制度は、専門内容とは別に、当事者の一方の意思表示を相手方に示すという意義が強くなってきている。 


 新型コロナウィルスにより、"3蜜"を避けるため、テレワークや時差出勤、電子申請が奨励され、多くの組織で利用することとなりました。これを機に、大手会社では勤務のメインをテレワークにするという方針という報道がなされました。ついでに、ハンコの廃止論も続きます。
 電子申請では、原本という発想がないため、押印どころか署名もありません。電子証明書は届出者が真正であると確認するためのものです。しかし、協定締結が真正かどうかはわかりません。それで受付け可能です。
 一般の新聞等では誤解報道があります。「ハンコ」の廃止を強調し過ぎで、厳密には署名(=サイン)と併せて廃止するのです。したがって、行政への届出書には名前の印字だけでよくなります。
 ここからが具体的な話になりますが、ハンコ廃止論を掲げる経団連会員等の会社では企業内組合と会社との労使協定もしくは労働協約があります。もちろん労使間の決め事ですから、署名か押印は必修です。それから、法律で定められた様式で監督署等に届出をします。そこに、また労使のハンコまたは署名が必要なのか、という無駄の廃止論が出ます。それに、法律の規定では、届出に署名も押印も必要とは規定されていないということがあります。
 さて、経団連会員等の会社のように、様式による届の前に労使協定(労働協約)が労使間で締結されている場合はそれにより契約的な効果が生じ、労基法の届出による法律効果が発生する届出にはハンコもサインも重ねて要らないだろうということになります。しかし、労使間の協定書がなく、様式による届出だけという会社の場合、同じようには行きません。協定書もない、様式による届出には労使双方のハンコもサインもない、となると、協定したことの証明ができません。このケースは今後裁判で無効確認の争いとなるものと予想されます。
 したがって、協定書を締結しない会社では、今まで通り届出様式に双方署名又は押印するものであって、一般的な報道による「ハンコ廃止」を鵜呑みにしてはいけません。



 人を見抜くことは難しい。自分で考えても、時と場合により、良くも悪くもある。
 韓国や中国ドラマの宮廷モノをみると、表向き平穏な身分や人間関係のなかにあって残忍な行為が行われていくことが描かれていますが、そうした行為者はそれぞれキャラクターがあります。
 このキャラクターを見抜くことは現実においてなかなか難しいものです。さらに、個人情報関連の取扱いや、業務と私情との峻別は現在相当神経質な事項と位置づけられています。
 この人のキャラクターは末っ子タイプか長男長女タイプかなどは人を見分ける入り口としてわかりやすいのですが、今は業務と関係づけることは難しくなっています。入社後の適材適所配置という人事権の成せるワザも、雇用契約時点がすべてとなる非正規雇用には適用は難しいですね。